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夜行列車と違い「駅ネ」は条件次第で地獄になる

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令和元年9月、東池袋一丁目バス停付近(東京都豊島区)にて撮影

今ではにわかに信じがたいことではあるけれど、国鉄(現JR)全線完全乗車を目指していた昭和の時代、夜行列車が数多く走っていたこともあり、駅の待合室で夜が明けるのを待つことは珍しいことではなかった。

 

例えば昭和60年頃の北海道。

函館駅から札幌駅までは普通列車の「41レ」(函館駅23:51発、札幌駅6:47着)(上りは「46レ」(札幌駅21:25発、函館駅4:58着))、

札幌駅から稚内駅までは「利尻」(札幌駅21:20発、稚内駅6:17着)(上りは稚内駅20:54発、札幌駅5:55着)、

網走駅までは「大雪5号」(札幌駅22:00発、網走駅6:44着)(上りは「大雪6号」(網走駅21:23発、札幌駅6:45着))、

釧路駅までは「まりも3号」(札幌駅22:15発、釧路駅6:12着)(上りは「まりも4号」(釧路駅22:25発、札幌駅6:25着))(昭和55年までは夜行の普通列車「からまつ」(小樽駅から釧路駅まで)も走っていた)。

 

上りと下りがすれ違うのは大体夜中の2時から3時頃であり(「利尻」なら士別駅、「大雪」なら上川駅、「まりも」は新得駅)、眠くて朦朧としたままそれらの駅で上りから下りに乗り換えることもあった。また、夜中の1時過ぎと3時前くらいに列車がそれぞれ停止して客扱いをするのであれば、駅の待合室はいわゆる「駅ネ」に使えたのである。

 

少しでも安く列車に乗るため、当時は夜行列車を多いに活用した。周遊券を使い、夜中に乗り換える……などという、あまり疲れの取れないスケジュールを組み、何度乗り過ごし、予定変更を余儀なくされたことか。乗り過ごした列車の中で頭をフル回転させてその後の予定を組み返すことも多かったが、出発前に予定を立てる際、時刻表がぼろぼろになるくらい読み込んでいたから、予定の変更はそんなに大変なことではなかった。

 

と、昭和時代には数多くの夜行列車が走っていたことで、これまた今と比べても多く残っていた閑散ローカル線に乗る予定を立てやすかった。しかし、地域によっては夜行列車を活用できないこともあり、その場合に役立ったのが「駅ネ」であった。文字通り、駅で寝ること。いや、コンプラ全盛の今にあっては「駅に着いたらもう夜中の1時でぇ〜、2時半の列車を待つために駅の待合室で待っていたら居眠りしちゃって気がついたら4時半発の始発に乗ったのぅ〜」といったところか。つまり、不可抗力。

 

まあいい。時代は昭和だ。昭和の時代の話だ。

 

青森や函館のような青函連絡船の駅、登山客が多かった松本駅、九州なら熊本駅など、いくつもの駅で「駅ネ」をした。モ〜ホ〜のおっさんに膝枕をされて目覚めたり、真夜中に警察の職務質問を受けたこともある。だが、最も印象に残っているのは岩国駅での滞在だ。あえて「駅ネ」と書かなかったのは、一睡もできなかったから。

 

今は知らないが、当時の岩国駅の待合所は、改札口の前に広がるベンチ置き場、といったほうが正しい形状だった。吹き抜けである。風が吹き抜けるのである。風邪をひきそうな構造なのである。あくまでも待合所は列車が来るまでの一時的な場所であるから、これで正しい。異議はない。文句もない。国鉄万歳。

 

翌日の岩日線(現錦川鉄道)乗車のため、とにかく始発まで待たねばならない。当時の岩国駅は夜中にも列車が停止することは時刻表で調べていて、待合室が閉鎖されることはないだろうと予想していたけれど、その構造まではネットもない時代だからわからなかった。余談だが、夜中の1時に最終列車が停車し、5時にならないと最初の列車が走らないケースでは、待合室が閉められることがある。4時過ぎでもちょっと微妙。3時台なら大丈夫だろう。単なる経験則だが。あ、もう何の役にも立たない情報だな。

 

さて、岩国駅である。北陸や山陰を走る国鉄(現JR)のまだ乗っていなかったローカル線を中心に乗り潰し、昭和55年3月30日、小郡駅を19:41に発車した470Mに乗り、岩国駅に着いたのは22:03だった。次の予定は岩国駅5:04発の521Dである。待ち時間は7時間だ。季節柄もあり、お日柄は良くなく、喉ががらがらする。寒いのだ。吹き抜けの待合所は風吹き放題! 風にとっては最高の環境になっている。ちなみにまだ喫煙さえできないガキではあるが、中学生の頃から一人旅をしており、夜行列車の乗り換えも駅ネも経験済みである。

 

いつものようにベンチに横になるも、寒い。眠れない。同好の士はいない。一人だ。時計を見る。まだ4時間もある。再び時計を見てもまだ3時間58分もある。ときが進まない。寒い。どうすべきか。

ホテルを探す選択肢はない。全くない。節約に努めていたし、もう夜中。頭の片隅にもないし、よぎりもしなかった。とにかく、何とか朝まで乗り越えるのみ!

 

当時はコンビニはおろか、満喫などの夜中にやっている店も駅周辺にはなかった。そんな時代である。

では、どうしたか。当時は当たり前にあった駅前の電話ボックスに潜り込んだのである。これはまさに最高の風よけ対策! 風を身体に受けないだけでこんなに楽になるなんて。

 

それでも寒かったので、自動販売機に走った。そこに表示されていた「あったか〜い」の文字はまさに心に火を灯す希望だった。100円玉を入れ「あったか〜い」の文字だけに注目して適当にボタンを押した。出てきたのはなぜか温かいミルクセーキだったが、飲むことよりも暖房器具として購入したので、後悔はなかった。この光景は、今でも夢に見る。

 

朝、始発の岩日線(現錦川鉄道)に乗った。爆睡し、起きたら終着駅の錦町駅だった。(令和元年9月28日)